岡田武史体制、W杯までのテストマッチ

岡田(おかだ)武史(たけし)監督(かんとく)は日本(にっぽん)代表(だいひょう)の試合(しあい)を15試合(しあい)指揮(しき)しましたが、イランとの死闘(しとう)の末(すえ)W杯(わーるどかっぷ)初出場(はつしゅつじょう)を決め(きめ)た試合(しあい)以降(いこう)、岡田(おかだ)武史(たけし)体制(たいせい)の日本(にっぽん)は苦戦(くせん)が続き(つづき)ました。あのジョホールバルの歓喜(かんき)以降(いこう)初めて(はじめて)の代表(だいひょう)戦(せん)となる、1998年(ねん)2月(がつ)15日(にち)のオーストラリアとの国際(こくさい)親善試合(しんぜんじあい)、3月(がつ)1日(にち)のダイナスティ杯(はい)韓国(かんこく)戦(せん)こそ3−0、2−1で勝利(しょうり)します。しかしダイナスティ杯(はい)の中国(ちゅうごく)戦(せん)で0−2で敗北(はいぼく)を喫(きっ)して以降(いこう)、日本(にっぽん)はなかなか勝てなく(かてなく)なってしまいます。4月(がつ)1日(にち)に行われ(おこなわれ)た韓国(かんこく)とのW杯(わーるどかっぷ)共催(きょうさい)記念(きねん)試合(しあい)でも1−2で敗戦(はいせん)。しかも、内容(ないよう)も良い(よい)とは言え(とはいえ)ず、本戦(ほんせん)に向け(むけ)て暗雲(あんうん)が立ち込める(たちこめる)ことになります。5月(がつ)にパラグアイ、チェコを招い(まねい)て行われ(おこなわれ)たキリンカップでも岡田(おかだ)JAPANの苦戦(くせん)は続き(つづき)ました。ホームにも関わら(かかわら)ずパラグアイに先制(せんせい)を許し(ゆるし)、終盤(しゅうばん)に相馬(そうま)直樹(なおき)のゴールで追いつく(おいつく)のがやっと。チェコ戦(せん)もなかなかゴールを奪う(うばう)ことが出来(でき)ず、守備陣(しゅびじん)は一定(いってい)の仕事(しごと)はするも、0−0のドロー。結果(けっか)、決定(けってい)力不足(ちからぶそく)という課題(かだい)を抱え(かかえ)たままフランスに乗り込ま(のりこま)ざるをえないこととなってしまいました。6月(がつ)3日(3にち)にローザンヌで行われ(おこなわれ)たユーゴスラビアとのW杯(わーるどかっぷ)前(ぜん)最後(さいご)のテストマッチでもこの課題(かだい)を払拭(ふっしょく)することはできませんでした。相手(あいて)は強豪(きょうごう)とはいえ、0−1で完封(かんぷう)されたというのは本戦(ほんせん)は相当(そうとう)苦しい(くるしい)戦い(たたかい)になることを予感(よかん)させましたね。岡田(おかだ)監督(かんとく)も頭の中(あたまのなか)は不安(ふあん)しかなかったんではないでしょうかね・・・。結局(けっきょく)、W杯(わーるどかっぷ)本戦(ほんせん)でも3戦(せん)全敗(ぜんぱい)でGL敗退(はいたい)。アジアと世界(せかい)との差(さ)をまざまざと痛感(つうかん)させられた数ヶ月(すうかげつ)でしたね。

岡田武史

岡田武史監督は日本代表の試合を15試合指揮しましたが、イランとの死闘の末W杯初出場を決めた試合以降、岡田武史体制の日本は苦戦が続きました。

岡田武史